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現場からのレポート 2022年08月12日

ご関心ある方はお読みください・・・長文です。

下記は現地で移植手術を受けることなく亡くなられたBさんご家族への手紙です。ご本人ご家族の無念さに想いを馳せると心苦しい限りです。

※F(現地女性・通訳)K(NPO実質代表)M(日本人・男性職員)

今回、渡航されたBさんは14年前に私どもが海外へ案内して腎臓移植を受けられています。
移植後、体調は良好でしたが通常の方より早く12年ほどで透析に戻られました。そして今回2度目の移植の依頼を受けて渡航した次第です。
ところが、現地到着後、腎移植の適応検査を実施したところ、強い不整脈と心不全が見つかり腎移植不適応の診断が下されました。
Bさんに移植を断念し、帰国を促しましたが当人は「何とかして腎移植をして下さい。このまま透析を続けるのなら死んだ方がましだ。絶対に帰らない。」と強くおっしゃられました。
私達は腎移植の外科医ならび循環器の医師と相談した結果、ペース・メーカーの埋め込み手術を施し、経過観察をする事になりました。医師からはリハビリと食事制限の指導がなされました。
私達は日本から歩行器をハンドキャリーして持ち込み、毎日スッタフが付き添い歩行練習のメニューに取り組みました。
また病院食(透析+糖尿)を待機中のホテルへ毎日3食、配食しました。
当人は塩気が無く不味いと言われ医師の許可を貰い、昼食だけは外食する様に変更しました。
一時期は心臓の機能も回復傾向にありましたが、主任外科医からは一度も腎移植の承認が得られる事なく現地滞在の半年後に命を落とされたのです。
Bさんは滞在中4回も救急車(搬送は3回)を呼び緊急治療を受けられました。コロナに感染した時は、透析をしながら入院できる病院が見つからず、日本大使館へ問い合わせしたところ、親切に病院の手配をしてくださり、助けられた事もございます。亡くなる4日前にNPO職員とBさんは循環器の専門病院へ診察に伺いました。
医師からは「すぐに日本へ帰国するか、こちらで入院してください。いつ心不全を発症しても不思議ではない病状です」言われました。
その、診断結果を私は、当人とご家族へご説明したところ、患者様とご家族は「どこかよその国や病院で腎移植はできないか?」回答されたのです。その3日後、Bさんはホテル内で倒れ、帰らぬ人となりました。
日本大使館員3名と十数人の警察官及び捜査員がホテル来ました。捜査関係者と大使館員は4日前の診断書(心不全)を私達から受け取ると、何事も無かったかのように全員が引き上げられました。
Bさんの希望に添えず、誠に申し訳なく思います。さぞ無念だったと察します。私達は滞在中、各自が一生懸命、目標に向かって全力でサポートしました。私達も残念であり悔しく思います。
悔やまれるのは、最初の腎移植不適応の診断時に強引にでも帰国させるべきだった深く反省しています。
14年前に苦楽を伴にし、渡航移植をした思い出が情となり、判断を誤りました。
下記は亡くなられたBさん家族へアテンドのスッタフがお悔みと経過報告を兼ねて送られた手紙です。固有名詞は非開示にしてあります。他は原文のまま

下記は現地の女性通訳Fからご家族への説明文です。

B様レポート  Fと申します。
2021年6月16 日から NPO 「難病患者支援の会」にて日本語の通訳の仕事に従事しています。 6月16日にK(NPOスタッフ)さんに初めて会って、6月23日にBさんとCさんを空港に向かいに上が りました。BさんとCさんはウズベキスタンに腎臓移植をしに来ました。腎臓移植する前に 病院へ検査をしに行きました。そして待機リストに入って透析をしながら手術の順番を待っています。
6月24日はナノ・メディカル病院へ透析をしに行きました。ところで、私はこの仕事を始める前に透析という言葉は耳にすることはなくて、腎不全というのは何か全く理解していませ んでした。
6月26日に透析中にBさんの具合が悪くなって、救急車でタシケントのヴァヒドフ病院へ 運ばれました、当日、ペースメーカー埋め込みの手術をしました。手術中私、は通訳をしています。
7月 1 日退院して、ホテルに戻りました。
7月9日、ホテルの廊下で歩行練習をしていた時に足が引っかかってしまって、転びました、 その時に救急車を呼びました。
その後、数日間全身痛かったとおっしゃっていました。Kさんが日本から歩行器を持って来てくれました。歩行器を使うと運動しやすくなりました。Bさんも重たい歩行器を日本から持って来てくれたKさんに感謝していました。Kさんからダイエットを指示され、Healthyfood.uz という会社に頼んで7月10日から毎日,3食、一日は1800カロリーぐらいの透析患者向けの食事を配達してもらっていました。口に合わなくて不味かったそうです、でも体のことを考えながら頑張って食べていました。 腎臓移植をする前に先ずは病院に体の検査をしに行きます。
私たちも到着数日後、病院へ行きました。その時に心臓専門医に心臓の機能は低下しています、2週間の治療を受けて、再度来 てくださいと言われました。
7月22日透析病院に来て具合が悪かったので、コロナの検査を受けて、陽性でした。 タシケント区外のザンギオタ病院にコロナの治療のために入院しました。私はその後トルコとベラルーシに出張しました、M(NPOスッタフ)さんと通訳のアジスさんは病院に行ったりしていました。
8月4日ごろからKさんもMさんも一時的帰国したので、ウズベキスタンに残ったのはBさんとCさんと私です。日曜日以外に毎日会っていました。月水金は公園に散歩に、火木土 は透析に行ったりしていました。
Kさんは毎日、歩行練習をすること。食事は決められた配食以外はダメと言われましたがBさんは不味いと怒り、内緒で時々レストランへ行きました。Kさんは何とか移植手術を受けさせようと真剣でした。
8月10日から透析後エポ Espogen10000(鉄剤)週一回やります。
8月12日からBさんは酷い下痢が始まりました。
8月28日透析後のポールカフェで出血してしまいました。原因はバンドを緩めたのは早かったからだと思われます。救急車を呼びました。
9月10日にBさんが足の小指に豆ができたのを分かりました。外科医に見て貰いました、 足の血流が悪いと言われました。抗生剤処方されました。
9月27日眼科医に相談をしに行きました。 ある日透析最中にBさんは針を刺すところが痛くて、今までのストレスが限界を達して、子供みたいに暴れた時があります。お医者さんと看護婦さんが言っていること聞かずに、「透析は 嫌です、嫌です、それ以上透析するなら死ぬ方がいい、もう死にたいです」と大きな声で言っていました。当時は何とかしてBさんを慰めました。この仕事をするたびに、透析は本当に辛い、腎不全の患者さんの人生は辛いだと分かりました。
11月25日にウズベキスタンからキルギスタンへ移動しました。ビシュケクの病院に移植を 行うことになりました。
12月12日ビシュケクの病院に外科医に会いに行きました。当時外科医が言ったのは、Bさんは手術中に亡くなる可能性は70%なので、手術はできません。 Bさんはそれでもいいので、どうしても手術をしたいですと外科医に言いました。ですが、 外科医は丁寧に断りました。Bさんは気分が落ち込みました。その日、トルコの先生にBさんの件について相談しました、トルコから優れた麻酔科と外科医を誘ったら手術できるかもしれませんという話をしました。
12月10日ごろからBさんは風邪気味で具合が悪くなりました。周りに風を引いている人もいましたし、マスクをしない人もいました。最初のころは漢方薬を飲んでいました。
12月19日はテラピストと心臓専門家に見て貰いました。
12月20日私は一時的ウズベキスタンに戻りました。
12月23日、Mさんから電話があって、今すぐ救急車を呼んでください、急いでと言われました。次の電話はBさんが亡くなりましたとMさんが伝えてくれました。その日の夜、ビシュケクに迎えました。その後、大使館と話し合たり、葬儀社の人とBさんの帰国の手続きをしていました。 Bさんはキルギスでお亡くなりになったことお詫びいたします。
私の感覚で言うと、Bさんはどうしても透析を止めたい気持ちはずっと強くて、どうしても 手術をやりたいと思っていました。手術を待つ間気分が落ち込んだり、光が見えて少し気分的に明るくなったり毎日毎日その繰り返しの中に生活していました。冷静になって客観的に判断出来なかったと判断したくはなかったと思います。私も透析は辛いのでどうしても手術できるように助けて上げたい気持ち一杯でしたが、結局何の力にはなりませんでした。
以上です。何かご質問があればお聞きください。 よろしくお願いします。

追記
Bさんと初めて二人で会話をしていた時に、Bさんがいきなり:「この国はゴキブリ はいますか」と聞きました。「僕はゴキブリを見てみたいです」と言いました。その時にへ え、面白い人ですねと思いました。普通の人とは世界観違いますねと思いました。今でもあの 会話を思い出すときに、思わず笑顔になります。数カ月間の間、Bさんと毎日会っていたし、 とても仲良くなりました、たくさん面白い話をしてくれました、たくさんの思い出が出来ました、ずっと覚えていたいです。いつか日本へ行ったら是非、奥さんと・・・ちゃんと犬たちに会いたいです。

2022年4月21日   F・・・

下記はNPO責任者Kから家族宛の手紙です。

死亡の経緯に付いて
※直接の死因に付いては既にMから診断書の翻訳文が渡されているので本文では省略いたします。

中国の湖南省にて腎移植して以来、十数年ぶりに五反田の・・・・クリニックで再会しました。その時は「透析に戻られて老化が進んだな~」と印象を持ちました。今回、死亡原因となりました心不全に付いては渡航前に電話で何度かやり取りをしており「心臓の治療を済ましてから渡航する」と奥様からお聞きしていたので、心臓のことは心配していませんでした。
しかしながら到着後、たしか2回目の透析中にアラームが鳴り異常の知らせです。その時、僕は病院内に居ましたが数分遅れて透析室(個室)へ入りました。すると医師や看護師が5~6人来ていて緊迫した状態でした。何があったのかF(通訳)に聞くと「強い不整脈とパルスの低下です」との返事でした。
透析病院には循環器の専門医が在籍しており聴診器を胸や背中に当てては何やら周囲へ話しかけていました。ロシア語なので意味は分かりませんが、皆が押し黙ってBさんの方を見ていたので大変な事が起きていると感じました。循環器の医師は強心剤をカテーテルから注入したが反応せず、ここでは治療ができない旨の話を院長へ説明したそうです。院長は腎臓移植を予定していた国立の総合病院へ搬送しようと連絡を取りましたが、あいにく土曜日で専門医が不在で処置ができないとの返事でした。院長はあちら、こちらの病院へ電話をしていました。 その時に医師達の見解はペースメーカーの埋め込みの治療方針で一致していました。既に救急車も手配していました。命が危ないことを話すと精神的にダメージを受けるので当人へは、やんわりと医師の治療方針を説明しました。Bさんは返事がなく考え込んでいました。しばらくして「どうするか、うちのヤツに聞いてくれ・・」絞り出すように回答されました。僕は直ぐに奥様へ電話しました。ここで大きな過ちを私はしました。返す返すも後悔しています。
奥様にも心配を掛けまいと考え、同様にやんわりと説明しました。記憶では「今すぐに死んでしまうような状態ではありませんが、ペースメーカーの埋め込みが必要・・・・」今となれば切迫した状況を正確に伝えれば良かったと悔やまれます。たしか奥様の話は①帰国して治療させたいと話された記憶があります。緊急性が伝わっていないと思いました。色々と説得しました・・②ロシア製のペースメーカーはダメ、帰国後のメンテナンスが心配・・回答を受け困惑しました。
上記を医師へ伝えると顔色を変えて怒鳴り始めました。何を言っているのかFは通訳しませんでした。多分、それどころではない・・・と怒ったと推察します。
様々な先へ連絡したころ米国製のペースメーカーがある事が分かりました。ただ、その場所は車で2時間ほど先でした。病院の若い職員が取りに行き手術をする病院へ届ける事になりました。医師達は興奮していました。Fは視線を落として「手術が間に合わなくても知りませんよと医師が話しています」と聞かされました。でもロシア製はダメと奥さんが言っているので仕方ない。現場の緊迫感と奥様との会話内容のギャップに苛立ちを覚えました。しかし僕は気遣いから正直に話すことが出来ませんでした。やがて救急車が到着して搬送されました。手術するまで一度も歩くことはありませんでした。僕達もタクシーで手術する病院へ向かいました。今にして思えばこの時に移植を断念すべきだったと思います。
外科医は日本への帰国を勧めました。 その一方、ペースメーカーの手術をした外科医は「一カ月過ぎたら腎臓移植はできます」と自分の成果を誇示するかの様に、全く違う説明をしていました。立場の違いと思いますが本人は嬉しい話の方を信じていました。その後も腎移植の外科医は「CさんはOKですが、Bさんの腎移植は様子を見る」と話すだけでした。ご主人には何度か帰国を促しましたが「Cさんが帰る時に一緒に帰る」と回答されました。またNPOスタッフには「お金を払ったのだかからやって(移植)欲しい」と話し、Cさんは「Bはん、絶対に帰らへんと言うてるで~」と聞かされました。当人の希望や気持ちも痛いほど僕は分かっているが厳しい状況のさなか、悩ましい日々が続きました。私の本心も、もちろん腎移植を済ませ健康体にして奥様の元へ返してあげたいと心より願っていました。その後、たしかに心臓の動きは良くなり、当人の顔色やしぐさに力ら強さを感じた時期もございました。まさに、この時が大きなチャンスだったと思います。しかし、残念な事に外国人に対する倫理委員会の審査が厳しくなりCさんも移植の延期が何度も繰り返されてしまいました。私達としては想定外の事で現地の移植コーディネーター(内科医)も何度も私達の元へ来ては事情を説明し、詫びていました。彼には他にも十数名の外国人患者を抱えていたので待機させられたのは私達だけではありません。MとFさんは毎日Bさんと一緒なので情も移り、いつしか「絶対に移植して帰ろう」との雰囲気と言うか、共通の認識になっていました。移植の日程が決まらないままに待機時間が長引くにしたがい、Bさんの心臓は再び不整脈が生じるようになりました。循環器の専門病院へ搬送して精密検査を受けました。医師の診断は「ぺースメーカーは正常に稼働しているが心臓全体が弱っており、心筋の一部(場所は忘れました)が壊死している様です」との説明を受けました。この時点で腎臓移植の望みは極めて少なくなりました。循環器の診断結果が腎移植の外科医に通知されました。医師の所見は、腎移植は不可と否定されました。あとはBさんを説得して帰国させるだけの状態となってしまいました。その頃、時を同じくして隣国のキリギスで腎移植が受けられる話が進められていました。Fはコーディネーターの医師にBさんの事を尋ねました。数日後、その回答は「執刀するエジプト人外科医がBさんを直接見て判断する」との返事でした。一類の望みを託し、キリギスのビシュケクへ向かうことになりました。この時点で日本から来た患者さんと併せて4名がキリギスへ移動しました。また他の外国人患者十数名も順次移動しました。
到着して数日後、エジプト人外科医はBさんの腎移植は不可で、他の3名は腎移植可能との診断でした。私としては様々、手を尽くしたが、移植の機会は得られませんでした。ご主人は諦めきれずFさんへ「何か方法はないか」とすがる様に頼んだそうです。その事を聞いて僕は「Bさんは諦め切れないので、やれることはすべてやってみてください」とFに伝えました。Fは移植コーディネーターの医師に方法を模索して欲しいと相談しました。その結果、コーディネーターはトルコからベテランの麻酔医師を連れて来て、全身麻酔ではなく、Bさんの意識を確認しながら進める「部分麻酔」にて実施できるかも知れないとの説明を受けました。Fさんはトルコの病院や関係先に電話して麻酔医を探しました。僕の記憶では、2万ドルの費用(渡航・滞在費含む)で引き受けてくれる医師が見つかったと聞いた覚えがあります。
その直後、イスラエル人患者の死亡事故が発生しました。内容はキリギス人医師(麻酔科)によるは麻酔薬の過剰投与と聞いています。移植手術は中断となり、今後の対応をどうするか関係者と協議中にBさんは亡くなられました。
補足して申し上げますと、亡くなる4日前の月曜日に循環器の専門病院へ行き診てもらいました。医師の診断はすぐに入院して治療するか、帰国して入院するかのどちらかと話されました。腎臓移植など、とても出来ないと強く言われました。 診断を聞いて僕は奥様に「心臓の状態が悪く明日死んでも不思議ではない・・・」と話した記憶があります。(火曜日の昼頃)

あとがき
当時を思い返せば、Bさんの死期が迫っていると危機感を持っていたいのは医師達と僕だけだったような気がします。亡くなる2週間ほど前にFが「気晴らしに雪山へハイキングに行く」提案がありました。Bさんは当然ホテル待機と思ったらFは「Bさんが出掛けたいと言いました」それを聞いてビックリしました。僕は「Bさんはそんな病状ではない」と言うとFは「ハイキングに行くぐらいで死ぬんですか?」と半ばバカにして返してきました。遠方なので車を終日チャーターしました。現地はマイナス10度以下でした。僕はBさんに「山へ行くのは無理です。車の中に居てください」と止めました。当人は不満そうな表情を見せましたが、従ってくれました。
その後、FとMに「君たちは死んでいく人を見ていないからBさんの状況が分かってない。いつ死んでも不思議ではない病状ですよ」と指導しました。でも二人とも僕の言葉を脅し文句程度で聞かれていました。真剣に受け取っていない様子でした。亡くなる2日前に奥様はNPO理事長へ「Kさんから移植を断られました。どこか別の(業者?)ないかと電話されましたね。死ぬ直前まで当人も奥様も、まさか死ぬとは思ってなかったと察します。もし間違っていたならお詫びいたします。
末尾となりますが、腎臓移植を完遂できなかったこと、深くお詫び申し上げます。私どもとしても、あらゆる方法を模索しました。出発前に現地の病院や移植コーディネーターから聞いていた話では、すぐに移植手術ができるとの説明でした。現に私達が到着したころは、イスラエル人やアラブ人への移植手術が実施されていました。また、移植コーディネーターは3カ月前に理事長とX(都内在住)さんの腎移植を2カ月未満の滞在で完結しています。両名ともに現在も体調は良好です。その様な事から現地コーディネーターの話を疑うことなく渡航した次第です。不測の事態あるいは想定外の事情が連続し目的を達するに至りませんでした。本当に申し訳なく思います。

令和4年4月19日   K・・・・・

下記はNPOスタッフM氏から、ご家族への手紙です。

B 様ウズベキスタン・キルギスタン滞在レポート
2021 年 6 月 23 日(水) 13:20発、飛行機で成田出発、同日 20:50 ウズベキスタン到着。(B様、C様、M 3 名)基本透析日 週 3 回 火、木、土
2021 年6 月 26 日 透析中にパルス低下により国立病院へ緊急搬送になり、ペースメーカー植え込み手術し、その後入院。診断書は別紙にてお渡ししたものです。
7 月 1 日 退院 ホテルへ移動
7 月 7 日 10:00~10:30 まで歩行訓練、腕立て(斜め腕立て)
14:00~14:30 まで歩行訓練 ホテル内
17:30~18:00 まで歩行訓練
7 月 8 日 6:35 から 7:20 までホテルの周りを休みながら散歩
9:00 透析17:20 から 18:05 までホテル内 歩行 814 歩 21:00 からホテル内歩行 500 歩
7 月9日 6:15 からホテル周辺 714 歩歩行(昨日の朝の半分くらい)11:00 からホテル内 729 歩歩行 14:00 ころホテル内歩行中に躓き、前のめりに転倒し、顔、体を床に打ち救急隊員を呼び医師に応急処置をしてもらう。(切り傷、打撲)
16:00 体が痛い、意識ははっきり。食事を部屋へ運ぶがあまり食べない。
19:00 食事はほとんど食べる。体は痛いが意識ははっきり。
7 月 10 日 9:00 透析、胸部レントゲン、異常なし。低カロリー(透析食)食開始。食べない。歩行 463 歩
7 月 11 日 7:30 部屋で食事、体痛む。
13:00 食事 8 割食べる。
17:00 サラダ半分食べる。
20:00 食事 7 割残す。
都度シップ交換、体の痛みあり。歩行 138 歩
7 月 12 日 7:30 分朝食 9 割残す。9:00 国立病院 がんと診断されるが、その後誤診とわかる。詳しい説明なし。一度帰国も考える。
14:00 昼食 半分残す。
19:00 夕食 7 割残す。
背中痛がる。都度シップ交換、歩行 1626 歩
7 月 13 日 7:00 食事 3 割食べる。
8:00 透析、
13:00 国立病院、昼食 4 割程度食べる。
17:30 から散歩休みながら 40 分程度。背中が痛い。
7月14 日
7:30 分朝食 半分残す
10:30 から 11:00 歩行 800 歩
12:00 スープのみ完食。他 8 割残す。
18:00 夕食おかず半分食べる。
7 月 15 日 7:00 朝食ほとんど食べない
8;00 国立病院通院後、ナノで透析
14;00 昼食半分残す
15:00 朝から移動などで 2700 歩行
18:00 夕食6割残す。
21:00 ホテルを歩く 300 歩
7 月 16 日 7:00 食事 半分残す。
9:00 から 9:30 散歩。昼食7割食べる。
18:00 ホテルの周り散歩ここまで 2800 歩
19:00 夕食7割食べる。
21:00 散歩1080歩。少しずつ歩けるようになっています。
7 月 17 日 7:00 朝食 ほとんど残す。
8:00 透析
13:00 昼食 ほとんど残す。透析後体調悪い。ここまで 700 歩18:00 オクサナさん宅で夕食。スープとおかずを食べる。この日少しせき込む、熱は 36.4
7 月 18 日 7:00 朝食 少し口付ける程度。
9:00 散歩 1400 歩
11:00 血圧安定
13:00 昼食 8 割残す。
17:00夕食
この日の体調は少し咳が出る。体調良くない。
7 月 19 日 7:00 朝食 6 割食べる 熱 37.2 度
8:00 病院 肺のレントゲン 問題なし
12:00食事半分食べる。
体温 37.7 度17:00 37.7 度19:00 食事食べない。 37.2 度。咳は少し落ち着く。コロナ検査(-)
7 月 20 日 7:00 食事 半分
8:00 透析13:00 昼食 3 割食べる。37.3 度
18:00 夕食ほぼ残す。 38.2 度 抗生物質を飲む
7 月 21 日 7:00 朝食レストラン 5 口位 37.7 度
10:00 37.2 度13:00 37.0 度 14:00 昼食 半分残す。
18:00 夕食3割食べる。
19:00 37.3 度 咳は少し。
7月22日 7:00 朝食 半分残す。37.0 度
8:00 透析 コロナ検査 陽性で別の病院へ行きレントゲン撮影。少し影
救急車呼ぶ、コロナ入院施設にて透析できるところを探す。救急車に拒否され、現地日本大使館に連絡し、ウズベキスタン保健省に連絡してもらい病院の手配大丈夫になり入院。ザンギオタコロナ病院。 差し入れ等は専用の窓口から届けるシステムでした。連絡は現地携帯を準備して連絡を取り合いました。
7月23 日 ザンギオタコロナ病院へアジズと一緒に荷物を届ける。
7月24日 ザンギオタコロナ病院へアジズと薬届ける。
7月26日 ザンギオタコロナ病院へ携帯扇風機届ける。病室のエアコン壊れていたらしくとても暑かったとのことです。
7月29日 M帰国。
7月7日からは毎日の状況を書き留めていましたので、上記のように記載させていただきました。ウズベキスタン到着後ペースメーカーの手術をしたり、転倒したり、コロナ陽性になったりで体調悪い日が続いていました。この時期のウズベキスタンは気温 40 度~暑い時では 50 度位で過酷な状況でした。国としての規模、病院の対応、技術、食事、清潔感、タクシー、文化などは日本とは全く異なる感じを受けました。
7月30日~11月2日 Mは日本。この間たまに電話する。この間手術は行われず。
11月3日 ウズベキスタン到着後一緒に食事する。以前より少しやせている感じでしたが歩行など足取りはしっかりしているようでだいぶ元気でした。体調も良さそうでした。透析病院でのレントゲン撮影、血液検査等は日本と違いほとんどしないと言っていました。また両腕に針をさして腕を動かせなかった時は本当にしんどかったそうです。その他足を痛めていて途中とても大変だったともおっしゃっていました。途中からCさんとの会話も減ったそうです。
透析 火、木、土
11 月 11 日 7:30 マッチング
11 月 12 日 散歩
11 月 15 日 散歩
11 月 17 日 散歩
11 月 19 日 散歩
11 月 20 日 貧血気味の為血液検査。
11 月 21 日 散歩
11 月 23 日 散歩
11 月 25 日 透析後キルギスへ出発。体重 76 キロ キルギス到着。

この時期のキルギスは日本より寒かったと思います。国の規模はとてもコンパクトな感じで、透析病院に関してはウズベキスタンよりも患者の数は多い。手術を行う予定の病院はキルギス到着時、機材の搬入など終わっておらずこれから病室(ICU)に機材その他の搬入など行う予定とのこと。エジプト人医師と面談の当日に機材が運ばれていました。
キルギス到着後の体重は約ドライウェイト 74 キロ平均位でした。到着後、元気な様子でしたが、鼻水、少しの咳、風邪気味が続く。ここに到着前に他にも風邪をひいている人がいてうつった可能性あります。但し以前よりは足取り歩行はしっかりしていて 2 日に一度の散歩では皆さんと一緒に歩いていました(大きな公園をしばらく歩く)。食事は少し制限していたようです。キルギス到着時はようやく手術は出来るという希望が膨らみ前向きな様子と少し緊張しているようでした。しかし手術をするエジプト在住の先生と面談後、心臓が悪いので手術に耐えられないとの事で断られました。「手術が出来るという前提で移動したのに・・」と、その時はものすごくショックを受けていました。
その後帰国も考えましたがトルコ人医師が麻酔科医の経験が豊富で優秀であれば手術の可能性があるとの事だったので現地にとどまり再度心臓の検査を受けることと、トルコの麻酔医師を探すという望みにかけてのキルギスに残ることを選びました。
12月16日位から風邪が少しずつ悪化する。20日、心臓の検査に行きましたが午前中から熱があり(37.5 度位)少し辛そうでした。心臓の検査が終了してその後、風邪の症状を見てもらうために別の病院(透析に通っている病院)で診断。安静する様に言われる。
21 日から下痢もひどくなり、食欲も落ちる。透析にはいく。22 日熱 38 度近くあり、下痢が続く。食欲もあまりなし、23 日は体調悪く透析を休む。PCR 検査を朝しました。朝から 38 度位熱があったため、朝から何度か様子見に部屋にいきました。その都度体調は悪そうでした。私が朝Fさんに電話して病院に行けるように話をしていました。おそらく入院になるだろうと話していたため、入院した時に必要になる薬などをFさんに転送していました。現地時間の 15:54 にFさんに病院に行けますか?とメッセージした後部屋に行きました。
ドアをノックしても出てこなかったが、声は(物音)聞こえたのでフロントからキーを借りて部屋に入りました。16:00 過ぎごろです。トイレに座りながら壁に倒れ掛かっていたので、私が支えてすぐにFさんに連絡して救急車を呼んでもらいました。Cさんの所にいた看護師さんも部屋に来てもらいBさんを支えながら声をかけながら救急車を待ちました(心臓マッサージもしました)が、救急車間に合いませんでした。
救急車到着後、すぐに警察も着て救急隊員の一人が心臓停止したと言う様な事を話していたと思います。この時警察が20人位もしかしたらもっと来たかもしれません。数時間調べていました。
結果、あとで遺体を調べたところ心不全と判断されました。以前にうつった風邪が長期化し、亡くなる数日前(3日位)からは熱が少し出ていたのと下痢が続いていました。食欲もありませんでした。その後の大使館との手続き等は奥様とのやり取りした事がすべてですのでここまでの報告とさせていただきます。

この度はお力になれず大変申し訳ありませんでした。
本当に残念に思いますし、悔やまれます。
また何か質問等あればご連絡ください、お答えいたします。

2022年4月15日  M・・・・・

※臓器売買の移植とは、あらかじめドナーを準備し、短期間に素早く秘密裏に実行するものと承知しています。私達の現地事情とは少々、異なる様に思います。

令和4年8月12日  移植医療:~現場からのレポート~



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